人生100年時代の「死に方」について書き散らかしてみた。



先日、社内のキャリアアップ研修のようなもに参加させられし、そのなかで『人生100年時代』という最近おなじみになったワードを散々聞かされました。

『人生100年』、日々の日常会話の中でも感じることは、皆さん100歳とまではいきませんがそれなりの年数を生きるつもりでいるようです。しかし「長く生きる事=幸せ」ではないことは理解しているようで、その後に出てくる言葉は大体決まっています。

・チューブだらけの延命治療されてまで生きていたくない
・下の世話を誰かにされてまで生きたくはない
・認知症になって訳が分からなくなる前に死にたい
・老後の10年、20年の長生きのために今を犠牲にしたくない

こんな感じです。


医療が発達し治療できる病気は飛躍的に増えた現在ですが、健康に日々の生活が出来る年齢、経済的に自立可能な年齢のリミットはもっと手前にあります。その後は生活面、経済面で他者からの何らかの支援を受けながら生きていくことになるでしょう。
そんなサッカーのロスタイムのような人生は、言い方は悪いですが『死んだように生きる』時間が長くなっただけという可能性もあります。

そんな時間のために、周囲に迷惑をかける、痛みに苦しむ生活を送る、多額の費用をかけるくらいなら、正直さっさと死にたい、『自殺』というよりは『死を選択する』ある一定の年齢を超えたらそんな人たちも出てくるのではないかと考えています。


ではこの話、自分の事として考えるとどうなのだろうかと少し悶々としていた時期がありました。要は先ほど列挙したような『自分が保てなくなった時、死を選択することができるか』という選択が自分には出来るのか、、、ということです。

そんなことをテーマにした漫画を以前読んだのでストーリーを交えて書き殴ってみようと思います。


それがコレ


福本伸行さんの作品「天」の最終巻です。



『天』という作品について

知らない方のためにこの作品を簡潔に説明すると、『麻雀』の漫画です。
この物語は主人公の「天」という人物と、麻雀の天才の「赤木」の二人を中心に話が展開される漫画で、二人は多くの強敵と対峙し数々の名勝負を繰り広げていきます。

赤木は天才的な死をも恐れない華麗な麻雀のスタイル、対する天は華麗さはないが泥臭くどこまでも諦めないしぶとい麻雀のスタイル。そんな違いがあり、それは二人の生き方にも表れています。

物語の最終章では、天才赤木が若年性のアルツハイマーを発症し、自分が自分で無くなる前に死のうと安楽死を試みます、そしてライバルであり戦友として戦ってきた天が必死に説得を試みる。

そのやり取りの中でお互いの生死観をぶつけ合う、そんな話です。



「天」の最終回を読んだのは確か高校(3年?)だったか、それから17年の月日が経ち、高校生だった自分も中年のオヤジになり始め、この漫画の中で語られているような経験もそれなりに積んできた。

世間的な成功と挫折、自分の能力の限界、社会で生きる事の矛盾、親しい人の死・・・
そんなことを経験していくうちに、いつの間にか「天」に出てくるキャラクターと同じくらいの年齢になっていた。

この歳になって改めて読み直すと、非常に示唆に富むやり取りにあふれていると気づかされます。

赤木の『死に方』

赤木は自分の考える『死』について天に語る。

自分の都合のいいタイミングや環境で生きることが出来ないように、完璧なタイミングで死ねることなんてない。

人生で成すべきことを成し、死ぬ直前まで健康な体で周りに迷惑を掛けず、子供や孫、仲間に見守られながら暖かいベットの上で苦しみもなく、眠るように死んでいく。

そんな死に方は殆どの人が出来ない。

「死ぬ前に後悔する〇〇のリスト」みたいな本があるが、きっとあれをすべてコンプリートするような人生を送っても死ぬことは怖いし、何かしらの後悔は残る。

それを「死の味」と赤木しげるは表現した。


ギャンブルに天才的な才能があり、カリスマ的存在だったアカギ・・・これまでの人生と同様に颯爽と自分の人生に終止符を打つのかと思いきや、死ぬことは怖い、無念だと涙を流して彼は言う。


何故自分がこんな病気に、まだやれたはずなのに、、、
そんな不本意な思いを感じながからも自暴自棄になることは決してなく、それでも彼は人生に対して『YES』と言う。



そして赤木は旅立っていった。




天の『生き方』

一方主人公の天の生き方について、天は無敵の赤木に唯一土をつけた人物です。

こいつね
(このシーンは不覚にも泣いた)


この物語では天という人物の「死」に対する考え方は詳細には描かれていません。ただ作品を通して彼の「生」に対する意志の強さ、考え方は十分すぎるほど伝わってきます。

赤木に対しても最後まで『生きろ』と言う。
『死ぬな』ではなく『生きろ』と、赤木の考えや生死観を理解した上でそれでも『俺のために生きてくれ』と言う。

「死」と正面から向き合って死んでいく赤木に対して、最後の最後まで「生」を諦めないことが天の生き方、そんなところでしょうか。


※赤木が強烈なのでどうしても目立ってしまいますが、この物語で作者が伝えたいことは「赤木のように自分を保てなくなったら死を選んだほうがいい」とか「理不尽な人生も受け入れるべき」とかそんなことではないと思っています。

赤木のように絶望と仲良くなり死と寄り添うように逝く死に方もあれば、天のように死を受け入れない、泥臭くてもカッコ悪くても心臓が止まる1秒前まで生きることを諦めない、それも生き方の一つだとおそらく作者は伝えたかったのだと思います。


で、話を戻そう。

ずいぶん脇道にそれてしまいましたが、そもそものこのエントリーのテーマは『自分が保てなくなった時、死を選択することができるか』ということでした。

結論から言うと、今の自分は多分死を選択することはいない(できない)と思っています。仮に明日、事故に合い寝たきりの状態になったとしても、自分から死を選択することはないでしょう。

将来になれば考え方が変わるのではとも少し思いますが、結局将来が今の延長線上あると考えるとやっぱり『死にたくない』という思いは強烈にあると思います。

かと言って天のように強く『生き抜いてやる』という意思もないので、死ねないから生き続けている。そんな感じが関の山かと。

『死に方』、『生き方』のような生死観を持つにはある程度の人生経験(時間の長さではなく、密度の濃さ)が必要なんだと思っています。

赤木や天に比べると自分はまだまだ真剣に生きていない、そんなことをちょっと感じてしまいまいした。(比較対照が悪すぎか、、)

死に方を考えるにはまずはきちんと生きることから始める、それがスタートなのかなと感じた次第です。



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